習慣化された努力と意思のリソース

僕にはよくあることだが、筋肉痛で脚を引きずりながら仕事していると、隣の課の偉い人から「その脚で今朝も階段上ってたろ?キミは意思が強いな!」と言われた。
今のオフィスはそこそこ上階にあるので、階段を使う人はそれほど多くなくて、ほとんどの人はエレベーターを使う。

しかし意思が強いと言われると、僕には違和感があった。
脚が痛くてツラいのは確かだけど、階段を上ることについて僕は意思を使っていないからだ。

その理由は、お客様を案内するなど特別の事情がない限り、移動には階段を使うと決めているから。
自分で決めて、例外なく繰り返しているから習慣になっている。
そして、習慣になっていれば意思の力は必要ないのだ。

ケニアの子供が裸足ランニングで10kmの通学をしているのに近いだろうか。
彼らは特別意思が強いのではなく、それが当たり前で、周囲もそれが普通だと思っているからやっているのだと思う。

このことについては為末さんの11月1日のツイート「努力に必要な意思量」が参考になる。

「例えば素振り1,000回をすれば皆同じ努力と思っている方もいるかもしれないが、実際には1,000回素振りをするのに必要な意思量が人によって全く違う。同じ努力をするのにも、意思を大量に必要にする事と、そうでない事がある。」

「私は陸上が好きだった。中学校の頃グラウンドで夢中で走っていたら、同級生のお母さんが通りかかって”いつも努力して立派ね”と話しかけてきた。ふとその時、僕の夢中の状態が努力に見える人もいるんだなと思った。」

「100mを10回走るのにも、人によって必要な意思量が違う。努力ができないと言われている人が大量の意思量を消費している事もある。中には他人から見ての努力自体から喜びを感じ、意思量が回復する時すらあって、アウトプットからは内的努力感はわからない。」

「【終わり】体の体力は考えても、心の体力を計算する人は少ない。人間の意思量には限界があり、無理矢理使えば尽きるというのが僕が現役時代に学んだ事。少ない意思量で大きな努力が出来る場所を選ぶ事がまず大きいように私は思う。」

そして続いて

「努力は夢中に勝てない。努力は意思を消費するものだと思っている人は、意思量がいずれ尽きて努力が止まる。」

と指摘している。

「努力は夢中に勝てない」というのは為末さんの思索のキーワードで、頻繁に考察されるものの一つだ。
為末さんの考察は、僕が先に述べたものとは少しアプローチが異なるが、意思のリソースを消費しないという点では同じだ。

僕は意思力を使わないようにするため、習慣や常識を変えるというアプローチを採る。
10月29日の「チャレンジの好循環というメソッド」の中で、
【やりたいことを達成している人と付き合う】こと。こういう人たちと付き合っていれば、それが当たり前と感じるようになる。 」
と書いているように、自らの習慣や常識を変化させることにより、それが努力だと感じないようにしてしまうのだ。

為末さんは自分が夢中になれるステージで戦うべきだと述べている。
夢中になれること、好きなことを仕事にしろということだ。
この指摘は戦略レベルで最も重要なことだと思う。

それに対して僕のアプローチは戦術レベル。
戦う場所と戦力が決まっている中、どうやって戦うかという話だ。

普段走ったことのない人が5km走ろうと思えば大量の意思リソースが必要だが、走ることを習慣にしている人はその辺を散歩したのと変わらない。

何かをやろうとした時、意思決定に努力を要したり、決意したりするのであれば、それはまだ習慣レベルになっていないということではないか。

走ることに限らず、料理を作ること、掃除をすること、本を読むことなど習慣化してしまえば楽になる努力はたくさんあると僕は思う。
限りある意思のリソースをどこに使い、どのように配分するのか。
これは自分の人生に照らし合わせて、検討するべき命題はないかと思う。

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