僕の人生に占いは要らない

占いは僕が人生から切り離したものの一つだ。
もちろん、愛好する人たちがたくさんいることは知っているし、そのことを非難するつもりはない。
ただ、僕の大切な人たちには関わらないことを強く勧める。
その理由を述べてみる。

まず前提として、僕たちは意志が弱い。
少なくとも僕は弱い。
そのため根拠のない情報であっても振り回される可能性が高い。

午前中に良いことがあるとか、午後からケアレスミスに注意と言われてしまうと、その雑音が気になってしまうのだ。
午前中はどんな良いことがあるのかな?と思うし、午後になったらいったい何が良いことだったのだろう?もしかしてあれかな?とか変なこじつけをしてしまうだろう。

さらに午後からはケアレスミスに気をつけなければ!と変に緊張してしまう。
そんな状態では集中力が欠けるし、実際にミスも起きるだろう。

自分に限ってそんなことはないと言い切れるだろうか。
これはプラシーボ効果であり、全ての人に多かれ少なかれ影響を与えると僕は思う。
本質的には呪いの構造と同じだ。

でもこれが一日の話なら実害はその程度かもしれない。
ではそのスパンを長くしてみるとどうだろう?

あなたは人生の大きな決断、例えば就職や結婚、大きな買い物について、占い師の意見を訊くだろうか。
まぁ参考までにとか、いい話が聞けるかもしれないとか、少しでもそんなことを考えるならば、問題の根は非常に深く、広い。

このことを説明するためにジョン・スチュアート・ミルの言葉を借りる。

人間の能力は知覚、判断力、識別感覚、知的活動、さらには道徳的な評価さえも、何かを選ぶことによってのみ発揮される。
何事もそれが習慣だからという理由で行うものは何も選ばない。
最善のものを識別することにも、希求することにも習熟しない。
知性や特性は筋力と同じで使う事によってしか鍛えられない。
世間や身近な人々に自分の人生計画を選んでもらう者は、猿のような物真似の能力があれば、それ以上の能力は必要ない。
自分の計画をみずから選ぶ者は、あらゆる能力を駆使する。

最初の段にあるように、人間の知性や特性という能力は何かを選ぶことによってのみ発揮される。
そして、その能力は筋力と同じように使うことによってしか鍛えられないとある。
では、筋力の問題に置き換える。
いつものようにマラソンに例えよう。

最初からフルマラソンを走れる人はいない。
これは異論がないだろう。
最初は1kmや3kmくらいから走り始めるものだ。
それを繰り返すうちに徐々に走ることができる距離が伸びる。
この距離が一種の筋力だ。

では先の話に戻してみよう。
今日のネクタイの色を決める際、テレビ番組や新聞欄のラッキーカラーの影響を受けていないか。
これは距離で言えば1kmかもしれない。
1kmの練習なんて、瑣末なことだから自分で走る必要はない。
他人に任せればいいということになるだろうか。

ランナーなら判るだろう。
1kmでも5kmでも走った距離は裏切らない。
その積み重ねでしかフルマラソンは走ることができないのだ。

大きな判断を行うために必要な知性や特性は、小さな判断の積み重ねによってしか得ることができないとJSミルは指摘している。
今日のネクタイや食べたいものを占いに頼る人は、小さなトレーニングの機会を逸しているのだ。
小さな選択を、自らの判断で、能動的に、たくさん行うこと。
失敗もあるだろうが、大きな選択を成功させるためのトレーニングなのだから気にする必要はない。
些細なことでも自分で選ぶ習慣をつけること。

そして小さな成功は、その次のもう少しだけ大きな成功を生む。
これは以前に述べた通りだ。
チャレンジの好循環というメソッド

フルマラソンは特殊な人たちの特殊な競技だ。
誰もが走る必要はない。

しかし、大きな判断は誰の人生にも必ずある。
そのためのトレーニングはどれだけ積み重ねても無駄になることは決してないし、自分で判断することができるようになるために、占いやその類から決別する必要があると僕は思う。

自分は両方選ぶという人がいたら根本的な誤りがある。
何かを選ぶことは、別の何かを選ばないこと。
両方選ぶということは即ち選択していない、つまり判断していないということなのだから。

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