自由と責任はトレードオフ

12月21日(日)に坂爪圭吾さんのトークセッションを主催し、ファシリテーターを務めた。
その中での僕の発言が彼に響いたようで、今夜次のツイートがあった。

マラソンが好き過ぎて、ゴビ砂漠を5日間かけて250キロ(!)走るマラソンに参加してきた男性の話が面白かった。「みんな、なんで苦労してそんな距離を走るんだとか言うけど、本来、誰もが小さな頃は走りまくっていたはずで、走ることと喜びは直結していた。(続く)
(続き)だけど、学校教育で『競争』や『強制』させられることで、みんな走ることが嫌いになってしまった。走ることの中には原始的なよろこびがあるし、何もないゴビ砂漠をひとりで走っている時の『俺は自由だ!』と感じる喜びは、ほんとうに素晴らしいものでした」

正確には6日だけど、そこは本質的に関係ない。
それより僕は、響く人には響くのだと痛感した。
もちろん、逆も然りだ。

出走を決めた後、多くの人に指摘されたのは「なぜそんな危険なレースに出るのか?」というものだ。
小野裕史さんのブログに掲載された写真を見て、僕もそこを走りたい!と思ったからだが、レースが終わって、もっと深く自分の内側を理解することができた。

僕は、剥き出しの自然と対峙したかったのだ。
小野さんの写真から暗示的にそれを感じ取っていたのだろう。
ランナーになってから、色んな場所を走った。
ロードだけでなく、トレイルも走ったし、ベアフット系のシューズでより自然に近付こうとした。

でも日本のレース環境は安全性を重視するあまり、自然の牙が抜かれているようにも感じていた。
もちろんTJARのようなエクストリームレースもあるけれど、参加資格などのハードルが非常に高い。
事故が起きればすぐに運営側の責任を追及されるので、責任を取りたくないというか、色々言われるのが鬱陶しいから安全対策を徹底する。
でも僕は思うのだ。

自然って元々危険を包含しているものだろう。
運営側が過保護に牙を抜いて、アトラクション化した自然と遊んで面白いのか。
僕は逆に、自然の中でこそ自然に対する危機を察する能力を鍛えるべきだと思う。

ナイフは危ないから使うなと言うのか、ナイフの使い方を教えるのかの違いだ。
日本では危ないから使うなという論調が多いけれど、そんなムラの掟はいつまで通用するのか。
グローバルでは使い方を教えるほうが主流と僕は感じている。

自分は無垢な子供のような存在だから、庇護されるのが当然。
行政に対しても同様で、災害が起きればなぜ事前にあれをやらなかったのか、これをやらなかったのかと責め立てる。
その結果、行政が肥大すると無駄が多いとさらに責める。
レースであれば参加費が高いと文句を言う。
そういう生き方ってどうなのか?

剥き出しの大地、というか、剥き出しの地表を自分で踏みしめ、何の動力に頼らず、自分の力だけで進む。
前後左右、地平線の彼方まで人影がない時もあり、そんな中で強い日差しに晒されたり、凍えるような雨に打たれたり、サングラスがないと眼も開けられないような強風に立ち向かったりする。

命の危険を感じるほど過酷な時もあったけれど、僕はこれまでに経験がないほどの自由、開放感を味わった。
自分の命を自分でコントロールしている実感があったし、この困難を克服できると信じるだけの精神の強さを感じた。
それは根拠のない自信ではなくて、これまでに様々なレースに出て、様々な経験をしたからこそ感じたことでもある。

今回のレースが少人数で本当に良かった。
前後に全く人がいなくなることが多かったので、誰も助けてくれないという感覚を味わえた。

自然に包含される危険の種類やリスクの程度は様々だ。
これをゼロにすることはできないので、自分でコントロールするしかない。
それが面白いのだ。
危険に対する感覚を磨かず、事故が起きた時に運営側を攻め立てるような人には永久に判らない感覚だろう。

でもそれが動物として真っ当な感覚ではないか。
その点でモンゴル人ランナーは僕よりも遥かに能力が高かった。
順位は僕が上でも、自然と自分の折り合いのつけ方やコントロールについては完全に負けていた。

僕はもっと自然と対峙する力を身に付けたい。
そのためには自然のことを知るだけでなく、自分の限界も知る必要がある。
もちろん新たなステージにもチャレンジしなければならないだろう。

このことは以前に書いたこととも繋がっている。
快食ログ:心の欲する所に従ひて矩を踰えず

自由と責任はセットであり、自分で自分に対して責任を負ってこそ、その分だけ自由になれる。
逆に自分で責任を負わない人は自由になれないというのが、今の僕の結論だ。
それは砂漠を走るとか、そんな極端な話だけではない。

どれだけ自分で自分の人生の責任を負うのか。
全ての局面において、そのトレードオフの分しか、僕たちは自由になれないのだ。
きっと。

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