Read me first!

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  • はじめに

初めまして。
快食.comを管理運営しているシャオヘイです(写真はこちら)。
このサイトのコンテンツは、掲示板等の一部を除き、僕一人が全ての文章を記述しています。
ただし構築から10年以上が経過し、情報が増え過ぎたので、はまちょびがデータベースシステムの管理運営を担当してくれています。
情報量が多いので、複数人の情報を集約していると間違われることがあるのですが、メールや掲示板で、良くなったとか、悪くなったと指摘されても、僕自身の体験以外で、評価を修正することはありません。
地元密着で長く運営していると情報も多くなるのです。

  • 盲信は危険です

先に述べたように、このサイトのコンテンツは一個人が書いています。
稀に、信じていたのに裏切られたという人がいますが、他者の意見を鵜呑みにし、自分で責任を持って考察することなく、一方的な信頼を寄せることには、飲食店の選択という目先の用件だけでなく、人生を生きる姿勢においても、大きな問題があると僕は感じます。
評価というのは、小説に対するものであれ、料理に対するものであれ、その他のものごとに対することであれ、信じるものではなく、参考にするものです。
もし、ある人物を無条件に信じ、その過程で自らの思考を停滞させ、その意見を無批判に受け入れるというのであれば、それはある種の宗教です。
僕は「快食教」という宗教をやりたいのではありません。
旨い、旨くないという、主観性の強いものを評価しているのですから、違いがあるのは当然です。
他者との違いを楽しみつつ、より自分が楽しむための情報収集の場としてご利用ください。

  • 営業を妨害する意図はありません

開設当初は営業妨害になるのでは?という議論がありました。
しかし、僕はその頃から営業妨害にはならないと主張していましたし、将来は僕と同じようなウェブサイトが乱立し、口コミがオープンに伝わるようになる、それを営業妨害だと法的に規制することはできないと答えてきました。
そして、10年後には実際そのとおりになりました。
そもそも、長い批評の歴史がある書評の世界では「書評家が悪く書いたから、本が売れなかった」という指摘は行われません。
それは書評家の必要性や存在意義が社会的に認知されているからだと思います。
しかし、日本の飲食店業の世界で「評価される」ということはインターネットの隆盛とシンクロしており、それまでは口コミで噂が伝わる程度でした。
むしろ、小説や絵画同様に、これまで評価の対象になるのが当然であったものが、いまさらやっと行われつつあるのだと思うのです。
そしてミシュランがそうであるように、正当な評価は文化の発展を後押しします。
ミシュランの評価が正しいかという議論はさておき、彼らがフランス料理の文化的クオリティを高め、維持する役目を担ってきたことは間違いないからです。
また、いまやこのウェブサイトだけではなく、主としてブログを活用した多くの飲食店情報サイトが生まれています。
飲食店でも店主の意識が高い店では公式サイトを設置していますし、どの情報をどのように分析し、自分なりの判断をくだすのかは、受け手の「情報取捨選択能力」の問題になりました。
そういう状況の中では、誹謗中傷ならまだしも「評論を行ったから営業妨害」というレベルの問題は成り立たないと考えています。

  • 基本的に評価は全て公開するつもりです

基本的には、公道に看板を掲げて不特定多数を相手にしている以上、良い悪いを含めて評価されるのは当然だと僕は思います。
そして、顧客や周囲から評価を下されるのは飲食店だけではなく、医者でも、政治家でも、画家でも、サラリーマンでも、理容師でも同じです。 僕は「店の評価は人事評価と同様である。」と考えています。
A氏にとってC氏は高い評価を受けているが、B氏にとってC氏の評価は低いということが往々にしてあります。
人が人を評価するとはそのようなものです。
飲食店の評価も同様です。僕が低い評価をくだしたからといって、全ての人にとってその店の評価が低いわけではありません。
ただし、多くの人が好む店にはより多くの人が好む要素があり、その逆の傾向もまたあるとは思います。
そして、サラリーマンが厳しい競争にさらされながら、それでも仕事の成果をあげようとしているように「予算がないから」「スタッフが揃ってないから」といった言い訳は斟酌されません。 結果としてどれだけの仕事をしたかによって評価されるのが一般的です。
皆、評価の対象者として世の中を生きているのです。
そして、その評価が的外れであろうとも、評価される側に知らされることはありません。
僕自身も上司や管理部門にいる人、また人事を担当している顔も知らない人たちが、僕の仕事ぶりをどのように評価しているのか、その評価表を見せてもらったことなんか、当然のことですが、一度もありません。
そういう観点からしても「良い評価だけ載せればよい」という主張はちょっと甘いのではないか?と感じます。
ただし、開設当初は全ての情報を公開していましたが、途中から星1つ以下は基礎データのみの表示に変更しました。
星1つ以下の店でも、全て普通にレビューを書いていますがが、それは、その店をいつか星2つ以上と評価した際、過去の状況を明らかにするためです。

  • 役に立つかどうかはご自身の判断で

役に立つ、立たないは情報の受け取り手が決めてくださることですが、僕は少なくとも「食べる」ことについて真剣に考えるきっかけにはなるのではないか?と考えています。
いろんな人の意見を聞き、考察することは、ただ、そのこと自体に大きな意味があります。
思索の内容に関わらず、自分の頭で、柔軟に、フレキシブルに、継続して、考えることこそが大切なのだ、と僕は思うのです。
「このくらいで止めておこう」とか「そこまで考えなくてもいいのではないか」などと思わずに、それでも考えることが重要です。
前へ前へ思考を前進させ、その考えが間違っていることに気付いたら、誰かに言われたからではなく、自分の責任において方向修正することです。
そしてそれが、皆が1日に2~3回食べる食事に関わることであれば、誰でも参加できます。
そのようにして多くの人が、他者の意見を鵜呑みにするのではなく、自分の頭で考えた、自分の意見として物事を考察することは、 それがどのようなコトであろうと、進歩の糧となることはあっても、最終的には僕たちを後退させるものではないと考えています。

  • 初回の訪問で評価を書きますが、地元密着型のサイトなので再訪も多いです

僕は1回の訪問でレビューを書くことが多いです。
ですが、複数回訪問の上、評価をくだす方がより正確であろうことは十分承知しています。
しかし、5回行けば、その店についての正当な評価がくだせるのでしょうか?
僕が5回行って良かったからといって、見ず知らずの誰かが訪れた時に同様のクォリティであるとは限らないのではないか、というのが僕の主張です。
もしも僕が100回訪問して評価を書いたとしても、101回目に訪れたときにどうであるかは保証されていないのです。
それどころか、僕は、一期一会で評価することは、その店にプロフェッショナルとしての敬意をはらっているのと同義であると考えています。
初回に満足させなければ、次回がないのはプロとして自明の理です。
常に100%の対応ができないのは、当然ですが、飲食店というのは(どんな仕事でもだけど)、その打率を高める努力が常に求められていると僕は思うのです。

  • 好き嫌いと、旨い旨くないは分離して評価するようにしています

食べ物に対する偏見はほとんどなく、基本的には何でも食べますが、マヨネーズが大量に使ってある料理、油脂や化学調味料過多の料理は苦手です。
どちらかというと素材重視で、手をかけて元より不味くなっていたりしたものは嫌いです。
誤解がないように申し添えると、単にシンプルな調理が好きなのではなく、素材の持ち味を生かした料理が好きなのであり、それは技巧的にとても高いものだと考えています。
料理とは「理(ことわり)を料る(はかる)」と書きます
料理には料理人の思想が反映されている、と僕は考えています。
また、好き嫌いと旨い旨くないは全く別の評価基準です。
「最終的には好みでしょ?」と言われる方もおられますし、確かにぎりぎりの境界線は曖昧ですが、だからといってそれを混沌にしてしまうと客観性が低くなると僕は考えています。
実際に、個人的に好きだけれど、高い評価をつけられない店や、僕の好みではないけれど、高い評価をつけている店は実際に存在します。

  • 料理カテゴリによって得て不得手があります

以前は中国料理がもっとも理解できているかな?と考えていましたが、今ではこれだけ食べ歩いても、僕はどの料理も未だ全然判っていないのだと感じるようになりました。
そして、もっとも判っていないのは「その他の料理分野」です。
たとえばギリシャ料理の専門店においては、料理の歴史、現地の味、その店ならではのアレンジなどを理解しなければ、単純に食べて旨いか旨くないかという浅薄なレビューになってしまいますが、僕にはギリシャ料理の知識が乏しいので、詳しい人が読めば、的外れになっている可能性が高いのです。
つまり、こんなウェブサイトを10年以上も続けて、やっと「無知の知」の入口に立ったのです。
そうすると「判ってもない奴が評価なんかできるのか?」という疑問が当然出てくると思います。
しかし、そんなこと言ってたら誰も何も評価なんかできません。
現代の富と流通をもってしても、世界中の味を堪能することはできないのですから、あくまで、その時点の僕が感じたことを書いているのだということを覚えておいてください。
僕も少しずつは進化しているので、過去の評価と現在の評価を比べると、齟齬が生じているいるかもしれませんが、あくまで訪店時の評価です。
そのため、参考としてレビューの最後に訪問年月を記載しています。

  • プレゼンテーションは重要と考えています

「いくら努力しても客が判ってくれないんだよ。」という嘆きが料理人の方からあるかもしれません。 確かに、バイトに毛が生えた程度の若造が、思いつきで作ったような「創作料理」を掲げて人気店になっているのを見ると、そう嘆きたくなる気持ちは判ります。 しかし、自分の努力を判らせる努力をしているでしょうか?
今どき「食べて判らないような客は、来てくれなくてもいい。」と言える店は多くないはず。
これだけ情報があふれてくると「客に説明して判らせる」というプレゼンテーションの能力が求められているのだと思うのです。
これはからは、ただ小馬鹿にしたり、嘆いたりするのではなく、説明して判らせなければ料理人の仕事は成り立たないと僕は考えています。
それは僕たちサラリーマンが、顧客に対してプレゼンテーションするのと同じことです。 顧客から対価と満足を得なければならないのであれば、作品(料理)だけでなく、その前段階であるプレゼンにも注力するのは当然です。 「客」が判っていないだけではなく「客」に判らせていない側にも問題があると思います。

  • 嫌いな言葉

僕がかなり嫌いな言葉に「こだわり」という言葉があります。
マスメディアでは、食べ物を語る際に枕言葉のように使われていますが、意味を理解して使っているのかな?と不思議な気持ちになります。
料理人として、何かにこだわるというのは、悪徳でこそあれ美徳では決してないはずです。
料理人が考えるべきことは「料理をいかに旨く、楽しく食べさせ、かつ健康に寄与できるか」ということに尽きます。
大切なのは食べる人や料理そのものであって、素材や料理法ではないのです。
料理や調理過程において「こうでなくてはならない。」という一心に凝り固まっていると、思考が硬直してしまい、それ以上の発展が望めなくなってしまいます。
どんなに完璧に思える料理でも、どこかに改善点があるに違いないと考える、その柔軟な思想からもっと素晴らしい料理が生まれるのです。
辻静雄さんの有名な言葉にも「料理に『究極』なし」とあります。
つまり、料理に対して「こだわり」という言葉は元々そぐわないのです。
「こだわる」とは、拘泥することです。
「拘泥する」とは「ひとつの方法又は価値観に縛られて、それ以外のものを尊重できない状態」を指します。
僕なら自分の料理にそんな言葉を使われたら、ちょっと、というか大いに不満なのだけれど、なぜか世にはびこっているので不思議なのです。

  • 職業や本名は公開していませんが・・・

僕がこのサイトを始めた頃「ウェブサイトの作者はハンドルネームではなく本名を記載すべきである」という主張がありました。
今となっては、こそばゆくて懐かしさすら感じる議論で、結局「職業や本名などのバックグラウンドとは関係なく、主張そのものを判断するべきである」という結論に落ち着きました。
つまり、偉い先生が言ったから正しい、フリーターが言ったから間違いというのではなく、誰が述べようが正しいものは正しいし、間違っているものは間違っているという考え方です。
既にこの考え方が日本におけるインターネット文化になっていると思いますが、こういうサイトを運営している以上、連絡先を明らかにしておくことはマナーだと考えています。
そのため、メールアドレスを公開していますので、ご意見等がありましたら、そちらからお願いします。
今後とも本名や職業は公開しませんが、これまでにもご意見、ご感想には常に僕なりの誠意をもって回答してきましたし、これからもそれは変わりません。
とはいえ、長く地元で続けているサイトですし、狭い街で生活しているのですから、僕のことを知ろうと思えばいくらでも手段はあり、色々とご存知の方も多いようですが・・・。

  • 評価基準

このサイトでは、多くのお店を紹介していますがが、どんな基準で選んでいるのかを一応、書いておきます。 以下の4点が大まかな評価基準です。

  • 1 料理の独自性

それなりに旨いんだけれど、なんかどこかで食べたことがあるような、決して旨くないわけではないけれど、抜群に旨くはないという料理は面白くないし、高い評価はつけません。
しかし逆に、僕の好みではなくても、味的に一定の評価ができ、他店との差別化を図っている店は高く評価しています。
例え「朱華園」のラーメンが旨いとて、「朱華園」の味と同じものを出したのでは面白くないし、食文化の発展に寄与しない、ということです。
客にとってのサプライズ、店にとっては攻めの姿勢が優れた飲食店の基本だと思います。
無闇矢鱈に変わった味を提供しろというのではなく、素材の声を聞いたり、組み合わせや調理の妙を重視してほしいのです。
そのため、伝統を守っている店でも改良できるところは改良すべき、と僕は考えます。
真の老舗は、常に革新しながら伝統を守るものであるからです
また、流行だけで売ろうとしている店には、当然ながら比較的厳しい評価になりがちです。

  • 2 費用対効果

いわゆる「コストパフォーマンスの高さ」です。
いくら旨いものを出してくれる店でも、内容に比して、値段が高いとリピートしません。
店には店の都合、家賃が上がったとか、借金があるなど色々あるとは思いますが、客にはそんなこと関係ないし、それを客に対して言うべきではありません。
ただし、1年に1回も行けないけれど、満足感の高い店というのもありますし、そういう「記念日的に行きたい店」の評価はもちろん高いです。
常連が支えてくれないし、値段が高いだけに気に入られなかったときの反動は大きいので、極めて高いテンションを保って仕事を続ける必要があり、なかなかできることではないと思います。

  • 3 サービスの質

飲食店がサービス業である以上、当然です。
味が良くても、快適な食事ができなければ、再訪はしませんし、僕の評価も低くなります。
長く同じ仕事をしていると、慣れてきて気が付かなくなるのでしょうが、客が逃げてからでは遅いです。
客としても、味の良いお店が潰れるのを見るのは寂しいものです。
また、ノリの良さを売りにする店とか、オシャレかもしれないけれど、商品知識を持たないスタッフがいる店の評価も低いです。
サービスというのはプロがいるほどに難しいものですが、バイトだからって易きに流れてはいけません。
不快な思いをしたならば、その相手がバイトであるか、店主であるかに関わらず、客は再訪意欲を失います。

  • 4 清潔さ

「汚れていて、不潔な店こそ美味しいんだよね。」という、信じられないようなことを言う人がいます。
確かに、汚くて旨い店もありますが、それは数少ない例外です。
「汚れている(=p)ならば旨い(=q)」という事柄を成立させるためには、必要十分条件が真であるべきでしょうが、必要条件も十分条件も成り立たないと僕は思います。
普通、料理に気を使っている店では、店内も清潔なものです。
もし、客のみならず店主まで「不潔なればこそ味が良い」などという俗信に便乗し、飲食店としての清潔と衛生を意図的におろそかにし、サービス業にあるまじき傲岸不遜な態度で客を踏みにじるようであれば、それは提供する料理に対しても同様であるとしか思えないのです。
それ以上の「店が新しい」「生花がキレイ」「建物が立派」などの付加価値は、値段に付加価値分をプラスされる要因になるし、店主の努力では難しいこともあるので、僕はあまり評価の対象にしていません。

  • 星の質

「焼肉店で星3つの店に行ったときには満足だったのに、フランス料理店での星3つに行ったら同じだけの満足は得られなかった」という指摘を頂いたことがあります。
各料理カテゴリーの評価は相対評価となっていますし、料理は文化だと僕は考えているので、それぞれの料理文化に立脚した評価を心がけています。
焼肉店の満足とフランス料理店のTPOは異なりますし、満足の性質も違いますから、単純に比べられないのです。
清潔さにしても、七輪の炭焼きをウリにしている焼肉店と、優雅さをウリにしているフランス料理店では、同様の基準では評価していません。

  • 常連だけの特別サービスは評価外

「この店、常連にとっては4つ星なんだけれど」という店も初めての客が居づらいようなら、星の数を減じます。
だから、僕の行きつけの店でも星1つということがあります。
僕は「常連客のみの特別サービス」をあまり好まないし、そういうことが多い店も好みません。
常連が発する排他的な雰囲気、店のオーナーでもないのに「俺の店」扱いする勘違いした態度、店主に無理を言うことが常連の特権だと思っている意識の低さ、それを許容する店の雰囲気が嫌いです。
良い常連は決してそういう態度をとりませんし、良い常連が多い店は排他的な雰囲気にはならず、当然、これみよがしな特別サービスもないのが普通です。
そして、それら常連のワガママを放置するどころか、増長している店には良い印象を持ちません。
また、どんな常連も一見の時があるのだから、常連しか相手にしない店には新しい客が来なくなり、結果として店にとっても良くないことであると考えています。

  • その街の店のレベルは客のレベルに比例しています

僕は色々なところへ食べに行きますが、店の人に腹が立つよりも、客に対して腹が立つことが多いです。
基本的に店に対して厳しいことを言っていますが、店が良い店になるべく努力しているのであれば、客は良い客となるべく努力する必要があると感じています。
安直に良いと言われる店を渡り歩き、無神経にサービスを享受し、料理と料理人に敬意をはらわず、店主のヤル気を消耗するのではなく、その店を育てるような気持ちを持ってほしいのです。
良いサービスを受けたときは素直に「ありがとう」と言い、料理が旨ければ「ごちそうさま。旨かったです」と伝えましょう。
客だから何をしても良い、何を言っても良いのではありません。
明らかに不当な要求をしたり、必要以上にミスをあげつらったりするのはやめましょう。
昔から「客が店を育てる」と言います。
良い客が増えれば、それに比例して良い店も増えるのです。
「良い飲食店がない」と批判するのであれば、同時に良い客になる努力もしなければならないのです。

  • もう一言

このサイトはそれなりに癖が強いので、合う合わないの個人差は大きいと思います。
でも、僕はそれで良いと思うし、そういう多様性が大切なのだと思っています。
口当たりの良いことだけが書いてあるガイドブックなら、本屋で購入してご覧戴ければいいのです。
僕は、正直な評価を望むなら、個人の思いが表面に出てきて然るべきと思うのです。
しかし「お前の口調は偉そうだ」とか「自分の好きな店の評価が低い」とか色々と気に入らないという方は当然おられると思います。
そういう時はインターネットウェブサイトという玉石混淆の中の「石」に当たってしまった、と笑っていただければ幸いです。
僕がサイトを始めた頃にはほとんどなかった個人の飲食店評価も、ブログという簡易にウェブサイト構築できるツールが生まれるなどして、どんどん増加しており、今後もその流れは止まらないでしょう。
それは僕も望んでいるところで、意見の食い違いを尊重しながら、様々な価値観を比較できてこそ面白いと思っています。

  • 日々努力しておられる飲食店の方へ

このサイトをご覧くださった飲食店の方にお願いなのですが、プロである以上、正当な意見であれば受け入れてください。
僕としては当該店に良いお店になっていただけるようにという思いで書いていますし、自分の店の評価ではなくても「他山の石」にしていただけるように書いているつもりです。
このサイトの趣旨は、誹謗中傷の類にあるのではなく、良いお店という有益な情報を提供することにより、真に良い店が広告費を使わなくても繁盛し続け、適正な利益を原材料費に傾注し、結果として僕たちの食生活が向上されることにあります。
真に良い店であれば真っ当に繁盛でき、それらの店の料理人とスタッフが尊敬される。
広島という土地がそういう土地になれば、店にとっても客にとっても、これほど嬉しいことはないと僕は思うのです。

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