「忘れ物はない?」と言うの止めようよ

あちこちでよく聞くフレーズだが、僕には常に違和感がある。
 
忘れ物がないか?と訊かれて、そういえば○○を忘れていたと思い出すケースってあるのだろうか?
合理的に考えてないと思う。
 
なぜならばその質問は「今日、休んでいる人は手を挙げて!」と言うのと同じだから。
休んでいる人は手を挙げることができない。
 
頭から抜け落ちているから忘れているのだ。
忘れていないか?と問われても、自分が覚えているものは全て揃っているから大丈夫ということになる。
質問そのものが無意味というか、価値がないのだ。
 
この質問を繰り返す人は、忘れ物が発覚すると「だから忘れ物がない?って聞いたのに…」と言う。
それって優越感に浸りたい、相手を支配したいだけではないか。
逆に、真に相手のことを考えていれば、煩わしいだけで価値のない質問はできないはずだ。
 
これを仕事に置き換えてみよう。
上司から「いいか、ミスをするなよ!」と言われたらどうだろう?
ミスをしようとしてする者はいない。
だからミスをするなというのは指示ではなく、どちらかといえば脅迫に近い。
 
「忘れ物はない?」と「いいか、ミスをするなよ!」は無意味で価値がないという点において全く同じである。
もう一つ追加するならば「勉強しなさい」というのも結構近い。
 
ではなぜ、これらのフレーズがダメなのか。
どのように改善するべきなのか考えてみよう。
 
どのフレーズにも共通しているのは、指示が抽象的なことだ。
忘れ物であるならば、例えば「財布は忘れてない?保険証も持ってたほうがいいよ」と具体的に言えばいい。
そこまで言われて財布や保険証を忘れる人はいない。
あらかじめ必要なものをリストアップして、それを一つずつ潰せばもっといい。
僕が海外のレースに出る時は何度もリストを見直してチェックする。
さらに頭の中でシミュレーションして必要なものを洗い出す。
 
日々必要なものは、それらの置き場所やカバンでの配置を常に決めておいて、所定の場所に所定の物が入っているようにしている。
そこが空いていれば、忘れているということ。
慣れてくるとカバンの中身の重量配分が変わったことで何かが入っていないことに気付く。
これも一つのチェックリスト方式だ。
 
「ミスをするな」という指示も「この業務はこの部分でミスを起こしやすいので留意しなさい」とか「そのやり方だと個人の能力に依存するのでこういう仕組みでシステム的にミスが起きないように改善しなさい」と指示すべき。
「集中しろ!集中すればミスしない」というのはただの根性論。
なぜミスが起きるのか、それを防ぐためにはどうすればいいのか。
そこまで考えて指示しなければ指示したことにはならないし、次のミスを事前に防ぐことができない。
誰だってミスはしたくないのだから、やり方や考え方さえ教えてもらえば自分なりに消化して、仕事に活かそうとする。
飢えた人には魚を与えるのではなく、魚の採り方を教えるのだ。
 
最後の「勉強しなさい」はちょっと構造が複雑になる。
この場合はどのように言えば抽象的ではなく、具体的になるのか。
これは練習問題として考えてほしい。
 
答えが一つしかなく、全部教えてもらえるのは学校教育まで。
実際の社会における問題は、答えがたくさんあるし、手取り足取り教えてくれる人はいない。
自分の問題は自分で考えて答えを出すしかないのだから。
 
【追記】
それって善意で言っているだけでは?という指摘があった。
なるほど、これを感情の問題として捉える考え方もあるんだと僕には新しい発見だった。
 
しかし、その思いが善意だろうと悪意だろうと、価値のなさは同じ。
逆に言われた側が善意で言っているのだからと好意的に受け止めてしまうと、そこで思考停止し、真に改善するプロセスへ進めない。
つまり善意のほうが罪深いと考えることもできるのだ。
 
「地獄への道は、善意で舗装されている」ので、善意か悪意かという感情の問題として捉えると、隘路に陥る。
「わかりやすい悪意」は誰でも避けることができるけれど、本当に怖いのは「間違った善意」なのだ。

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