走り続けることによって得られたもの

走る生活を続けて、自分の価値観が変わったと感じている。
具体的には細かな執着が薄くなり、本質だけに興味を持つようになった。

本質以外は全て瑣末なことなので、枝葉末節がどうなろうと気にしない。
例えば、どうしても何かを食べたいとか、何かがほしいとか、何かをしたいとか、誰かに勝つとか、家や車の所有欲とか、そういう本質的ではないことに対してほとんど関心がなくなった。

どうしてそういうことが起きるのかを考えて気付いたが、走ることを通じて、自分を追い込んでいるからではないかと仮説を立てた。

想像してほしい。
とても苦しくなるまで走り続けていると、気持ちに余裕がなくなる。
忙しい時にイライラするように、苦しい時には心が荒む。
それは誰でも経験があるだろう。

実際、そういうランナーも多くて、大会に出ると傍若無人な人が一定数いる。
例えば給水所で受け取った紙コップをゴミ箱に入れず、路上に投げ捨てたり、ボランティアスタッフに厳しいことを言う人たちだ。
自らの限界スピードで走っているのだから、余裕がないのだろう。
余裕がなくなって、醜いネガティブな自分が現れているのだ。
それは僕にも経験がある。

しかし、考えてみてほしい。
市民ランナーにとって速く走ることは目的なのか。
僕は違うと思う。
速く走ることが目的なのは、競技生活をしているプロだけだ。
彼らにとってはタイムが正義だ。

でも僕たち市民ランナーは、走ることを目的化するべきではないと思う。
走ることは手段だ。
では何のために走るのか。

僕は様々な学びを得るためと思う。
その一つが、どんなに苦しい時でも気持ちの余裕を失わないことだ。

一度、限界まで自分を追い込んでみるといい。
そんな状態では怒りとか、恨みとか、不満とか、そういうネガティブな気持ちが霧散する。
大切なのはネガティブな感情を抱える余裕すらなくなる、ギリギリまで追い込むことだ。
そうすれば全力を出し切った達成感に包まれるし、もし限界を突破できれば、大きな歓喜に包まれる。
それはとても清々しくて、雑音が全くない世界だ。

そういう経験を繰り返していると、苦しい時でも気持ちに余裕が生まれる。
紙コップはゴミ箱へ入れるようになるし、そのまま持って走って次の給水所で捨ててもいい。
ボランティアスタッフには「ありがとう!」と感謝の言葉が出てくる。
ネガティブな感情がなくなる清々しい世界を経験すれば、誰だってそれくらい自然にできるのだ。

僕の想像だけれど、これを突き詰めると「千日回峰行」のような世界に至るのではないかと思う。
重要なのはネガティブな気持ちをエネルギーにして走らないこと。
それではいくら強くなっても意味がない。

生まれつき強靭で「千日回峰行」を軽々クリアできる超人がいたとしても、その修行の中から学びを得られなければ意味がないのだ。
そのことはつまり、走る速さと得られる学びに直接関係がないということでもある。

大切なのは自らの限界を知ること。
それを突破するために走ること。
走ることそのものから学びを得ることだ。

小さな子供は公園でも、スーパーマーケットでも走り回る。
走るなと言っても走る。
それは走ることが喜びだからだ。
忘れている人が多いけれど、僕たちは走ることが大好きだったじゃないか。

走ることでネガティブな執着を脱ぎ捨てよう。
走ることで子供の頃の根源的な喜びを取り戻そう。

僕は走ることによって心の平穏を得て、何でもない生活に幸せを感じることが多くなった。
不満を感じることはほとんどなく、怒ることもない。
誰かと自分を比べて妬むこともなく、自分を大きく見せたいという気持ちもない。
ただし、挑戦する心と学びを得る姿勢は以前よりも強くなった。

僕は最近、ランナーとはライフスタイルを表す言葉ではないかと考えているのだ。

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