心の欲する所に従ひて矩を踰えず

最近、スポーツに熱中して食への興味を失っていると言われることがある。
確かに現象面だけを捉えれば、そのように見えるのかもしれないし、誤解されるのは構わない。
説明しなくてもわかってくれる人はわかってくれるし、その逆も然りだからだが、僕が今、考えていることは書き残すことにした。
なぜならばこの思索を土台にして、将来、全く別の考えに至る可能性もあるからだ。

ここ数年、僕はエンデュランス系のスポーツに取り組んでいる。
具体的には様々な距離のマラソン、自転車のロングライド、トライアスロンなどだ。
そのため、身体はずいぶん絞れてきたし、食事内容も変わった。
しかし、その前は酷い状態だった。

20歳台にはずっとスポーツジムに通っていたし、基礎代謝も高かったので、食べても太ることはなかった。
しかし30歳台になると運動習慣が徐々に減退し、にも関わらず食事量が減らなかった。
当然、体重は増える。
体重が増えると身体の不具合、僕の場合は背中の強烈な凝りや食欲の減退が起きるようになった。

僕は昔から、どのようなものを食べたいのか、身体のメッセージを聴くようにしている。
不足している要素は身体が理解しているはずなので、それに応じた食事をするのだ。
また、僕の場合は飲食店のレビューを書くので、その店の料理と体調の相性が悪い時に食べてはいけないと考えており、現在でもそれは実践している。
身体がその料理を食べたいと思っているタイミングを選ぶことにより、体調という不確定要素をできるだけコントロールしたいのだ。

ところが絶対量が食べられなくなると本当に困る。
当時は本当に食べる量が減っていて、周囲からも少食認定されていた。
今から考えれば内臓脂肪が増え、内臓そのものが元気をなくし、基礎代謝が落ちて、身体の活性が落ちていたのだと思う。

走り始めたのはその頃だ。
背中の凝りは酷い状態になり、痛みを通り過ぎて痺れるようになっていた。
そのため姿勢が歪み、自分では真っ直ぐ立っているつもりが、奇妙によじれてしまっていた。

背中をほぐしてもらいながら、ヨチヨチと走り始めて現在に至る。
その心境などはここに書いた。【長距離を走るということ

僕が行っているスポーツは、基本的に一人で黙々と身体を動かし続けるもので、内省的というか内観的だ。
自分自身と向き合う時間が長く、経験を積めば何を食べればどのように身体が動くのかをダイレクトに感じることができる。
自分の身体に合ったドリンクは何か。
補給食はどのくらい疲れている時に何が有効か。
どのくらい汗をかいたら何を食べなければならないか。
レースの前後に何を食べるべきか。
そのことは必然的に、自分の身体が何を欲しているのか、これまで以上に深く考えることになった。

そして、以前に比べるとたくさん食べるようになったが、脂っぽい食事が苦手になった。
以前は焼肉や揚げ物を食べたくて困ることがあったけれど、最近はその欲望がほとんどない。
そのため、焼肉、とんかつ、天ぷらのレビューが激減した。
残念だが無理に食べてもいいレビューは書けないので、仕方がないと考えている。

また、少しずつではあるけれど、身体の欲望と頭の欲望が近づきつつあることを感じている。
僕が目指しているのはその合一だ。
教条的な食の世界、例えばマクロビオティックなどの様々な制限を設ける食の世界のことだけれど、そういうものには興味がない。

自分の身体が何を求めているかは、自分の身体に訊けばいい。
時間をかけてじっくり向き合えば、誠実に答えを返してくれる。
頭で欲したものが、身体の欲しているものと違うのであれば、頭が身体のメッセージを聴いていないということではないか。
いわば食における知行合一だ。

僕自身、自分の身体の声を聴くという作業の入り口に立ったばかりなので、これ以上はうまく伝えることができない。
こう書くと、何だ答えを教えてくれないのか、と述べる人がいる。
そう、まだ僕はまだ答えにたどり着いていない。

しかし、重要なのは答えを得ることではなく、問いを立てることだ。
自ら問いを立てなければ、本質にはたどり着けない。
結論を得ることを急いではいけないし、それは目的ではない。
答えは問いに包含されているし、問い続けているうちに問いそのものが変わることもある。しかしその問いは自分で立てるしかないのだ。

僕は快食とは何か。
快適な食事とは何かを問い続けた。
そして自らの体験から「心の欲する所に従ひて矩を踰えず」を食を以って実践することが真の意味での快食ではないか、と問いを立てた。
答えは得られるかどうか判らないし、得られなくても構わない。
先に書いたように、本質は問いの中にあるのだから。

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