初めての80km走

4月20日、高梁市で行われた歴史街道ウルトラマラニックに出場した。昨年、61kmを走ったが、今年は78kmにエントリーしたのだ。

マラニックというのは聞き慣れない言葉だと思うけれど、マラソンとピクニックを合わせた造語で、走りながらピクニックをしましょうという意味である。僕は昨年、そのままの意味のつもりで出場したが、周囲はウルトラランナーばかりで驚いた。実質的には初心者も参加しやすいウルトラマラソンだ。

距離が非常に長いので、給水所だけでなく、エイドステーションもある。とはいえ、提供されるのは、おむすび、味噌汁、漬物、果物がメイン。カレーライスやとんかつを出されても困るし、走りながら摂取する料理を突き詰めると上記のような品揃えになる。実際、9月の周南24時間リレーマラソンでも、ほぼ同じ料理を食べている。

このマラニックは2つのコースがあり、制限時間は61kmでも78kmでも同じなので、61kmコースだったら、1/3くらいは歩いてもゴールできる。昨年の僕がそうだった。30kmを過ぎた辺りから走ったり歩いたりになり、50kmくらいからずっと歩いてしまった。もちろん、楽ではなかったし、達成感もあったけれど、今年は全部走りたいと考えていた。昨年は状況が判らないまま参加したけれど、昨年、本物のウルトラランナーたちに触れ、憧れてしまったのだ。

そのための練習はある程度行ってきた。フルタイムで仕事をしていれば、練習時間の捻出が課題になる。そんな中でそれなりに走ったつもりだったが、フルマラソンを越えて、さらに30km以上走るなんて練習していないし、ちょっと想像ができない。期日が迫るごとに徐々に距離に対する不安が大きくなっていた。

そんな時、ある人が「大丈夫。あなたなら大丈夫。自信をもってがんばってください」と言ってくれた。この言葉が僕の不安を和らげてくれた。また「結果も大切だけど、その過程のほうが私は気になります」とも。そう、昨年は歩いてしまったことを悔やんでおり、少しトラウマになっていた。このレースを単なるピクニックと考えるのか、ウルトラマラソンと考えるのか、それによって挑む姿勢が変わる。僕は自分で納得できる内容のレースにしたいと考えた。そもそも78kmコースはほぼ全て走らなければ、制限時間に間に合わないのだ。

当日は午前3時前に起きて広島を出発。スタート地点である高梁市役所には6時頃に着いた。トイレを済ませて、着替えて、荷物を預けたらスタート前。市長挨拶などの後、7時にはゆるゆるとスタートした。

通常のマラソン大会とは異なり、スタートはとても緩い。そもそもタイム計測がなく、順位も調べない。フィニッシャーは全てウィナーという考え方なのだろう。僕はこの考え方がとても好きだ。

参加者は61コースが40人くらい、78kmコースが100人くらいか。61kmコースは昨年の僕のような超長距離に対する様子見が多いけれど、本気のウルトラランナーは当然78km。30kmを過ぎた最初の折り返し辺りで選別が始まった。

最初の折り返しはダラダラと登った坂の上にあるのだが、そこを僕が走り始めてすぐに先頭ランナーが降りて来たのだ。その後、どんどんランナーが降りて来る。参ったなと思いつつ、まだ先は長いのでマイペースで登り、折り返しのエイドで補給した後、下ってみると、これから登りに挑む人が大勢いた。一人一人に「ウィッス!」「お疲れ!」「ファイッ!」などと挨拶しながら下り、次のエイドに着くと、まだこれから登る人たちもいた。おそらく昨年の僕はこの辺りにいたんだなと思いを馳せつつ、次のエイドに向かう。

スタートから40km近く走っていて、参加者が少ないため、前後にランナーは見えない。声援は時折、優しいおばあちゃんが行ってくれるだけで、田舎道を一人で走っている状態だった。そのため、コースを間違えてしまい、少し無駄に走ってコースを戻ったりもした。

次のエイドは44kmくらいの地点にあり、既にフルマラソンの距離を越えている。徐々に空が暗くなり、寒くなりつつあったので、砂糖とミルクの入った熱い珈琲を飲んでいると、昨年同様、日本酒が置いてあった。これ飲む人いるの?と訊くと、僕よりも速いランナーたちが飲んだとのことで、2/3くらいは減っていた。マジかよ、信じられんと言っている目の前で立て続けに二人が飲み「旨いよ」とご満悦だった。僕には到底真似できない。

その後は前後にほとんど人影が見えないレースが続いた。人数が少ないため、抜いたり抜かれたりしても、すぐに差が開いてしまい、同じペースで走る人がいないのだ。気になっていた雨は徐々に降り始め、50kmを過ぎた辺りで本格的に降り始めた。

53kmを過ぎたところで昼ご飯を出してくれるエイドがあり、そこでしばし休憩し、再び走り始める。この辺りで脚は一通り、全て痛くなっていて、アキレス腱も膝も脹脛も股関節も全部痛かった。でも、走っている間に痛い場所が移動するので、エイドでストレッチなどをすれば、再び走られるようになった。完全な本降りになったので、リタイアする人が何人もいたけれど、後のことを考えると正解だったと思う。軽装の人にはゴミ袋で作った簡易カッパも渡していたが、その後の過酷さは凄まじいものだった。

53km過ぎのエイドを出ると登りが始まる。その登りは5kmくらいで450m登るので、平均斜度が8%くらいだろうか。荷物を積んでいない軽トラの後輪が空回りするほどの傾斜で、あとから宿泊が同室なった人たちに訊いたが、僕よりずっと速い人でも歩いたようだだった。しかし僕は先に述べたように、結果ではなく過程を大切にすると決めていたので、歩くのと変わらない速度でありながら、最後まで歩かなかった。

この山を登り切ったエイドにはストーブが置いてあった。この日は4月後半とは思えない冷え込みで、山の上の雨にはミゾレが混じり始めていた。雨が降るかも?という予報は出ていたが、ミゾレに対する装備はしていない。参ったなと思いながら走り続けた。
気温はそのまま下がり続け、ミゾレどころかアラレが身体に当たって痛いほど。なんとか次のエイドに辿り着いた時には、手がかじかんで動かず、スマホを操作することも、振る舞いの汁粉を受け取ることもできなかった。何とか動くくらいまで温めて、汁粉を食べていると、小学3年生か4年生くらいのとてもチャーミングな女の子が「ミサンガを巻いてもいいですか?」と手首に手作りのミサンガを巻いてくれた。これがまた僕の力になった。僕くらいの実力では、自分の力だけでこの距離は走れない。誰かの信頼、誰かの祈りによる後押しが必要なのだ。

その後の走りは正に修行レベル。既に67kmに達しており、脚や腰は痺れているのか痛いのかよく判らない。頭の中は「大丈夫。僕なら大丈夫。まだ走れる」と念仏のように繰り返していた。

エイド以外では歩かない、休まないと決めていたが、いつになったら次のエイドが来るのだろう?手の感覚がずっとなくて、変に痛くて、凍傷になっているのではないか?と考え続けて、ヤバくないか?と思い始めた頃、次のエイドがあった。ちょっと前に74kmの表示があったので、残り4kmかな?と思いつつ、僕は嫌な予感がしていた。

昨年、僕は58kmコースにエントリーしたが、同じエイドで「距離表示が間違ってててさ、実際は61kmあるから」と明るく言われて絶望したのだ。今回も同じコースであれば、残り4kmであるはずがない。恐る恐るそのことを確認すると「あー、残りは7kmだよ。距離表示が違うんだ」と明るい答え。

ランナーは0度近い気温の中、濡れて凍えた身体の体力とゴールまでの距離を計算しつつ、ここまで走っているので、少しでも距離が伸びるのは精神的にかなりキツい。しかし、さすがウルトラランナー、文句を言っている人は一人もいなかった。ただし、あとから同室の人たちとこの話題で「あれはヒドすぎる!」と大笑いになったけれど。

最後のエイドを出た後はゴールまでずっと登り。アラレは徐々に雪に変わり、周囲の道路には積もり始めた。この頃からスタッフの動きが慌ただしくなり、ランナーの状態を細かに確認し始めた。何度もスタッフの車がやってきて、体調は大丈夫かと確認する。

スタート地点ではTシャツに短パンという軽装の人もいたので、低体温症でリタイアする人もいたのだろう。実際、走り終わった後の風呂でも「一度体温が下がると身体が動かなくてさ」と言っている人がいた。それはもう、低体温症の手前なので、危ない状態だったと言える。今回はそういう人が多かったのではないか。幸い、大きな事故はなかったようだけど。

最終エイドで休んだ時、僕はずっと持って走っていたどら焼きを食べた。こういう超長距離では、最初はおむすびなどのでんぷん質が嬉しいけれど、後半になるとすぐにエネルギーになる糖分がよかったりする。僕は自分の身体には経験状、こういう食料が合うと思っていたので、最後の最後に投入したのだ。

するとそこから一気に元気が出て、痺れた脚をぐんぐん動かし、ゴールまでに10人近く抜いたと思う。正式な計測はないけれど、スタートからゴールまで、エイドもトイレも休息も全て含めて10時間半だった。

距離は最後の距離表示が78kmコースの80kmだったので、少なくとも80kmhは越えていると思う。ゴール直後、かじかんで動かない手で取りあえずの完走報告をして、荷物を取りに向かったところでもの凄い悪寒が襲って来た。体表面ではなく、背骨が凍り付いたような芯から来る悪寒で、身の危険を感じた。一刻も早く身体を温めなければと思い、疲れ切った身体を引こずるように風呂へ向かった。風呂は大混雑だったが、凍える手で苦労して服を脱ぎ、湯船に浸かるとやっと少し元気になった。湯船に長時間浸かっても、身体の芯の冷えは抜けなかったが、かなり軽減した。

その後は激しい空腹感に襲われ、すぐにご飯を食べた。ご飯だけでも3杯食べ、おかずをほぼ全部食べた。昨年は食べる元気すらなかったが、今年は食べるだけの力がついたのだろう。食べても食べても腹が減っていたが、しっかり飲んで食べると体力の回復が実感できた。

ちなみにこのくらいの疲労度になるとビールはあまり欲しくない。それを去年経験していたので、今年は旨い日本酒(=2013金冠黒松純米大吟醸しぼりたて生原酒)を持参して食べながら飲んだ。懇親会もあったが、昨年、主催者の自分語りがダラダラ長く、ものすごく疲れているのに勘弁してくれと思ったので、今年はパスして部屋で横になった。しばらくすると同室のランナーが戻って来たので、ラン談義になった。

お互い細々と身体のケアをしながら話をして、20時過ぎには全員布団に入った。食事とケアが終わったら、休息するのみ。皆、僕よりも経験豊かなウルトラランナーだったので、とても勉強になった。僕は横になっても身体の火照りが激しく、全然眠くならなくて、深い達成感に包まれて、眠るのが惜しくもあった。

話し相手もいないので、しばらくツイッターで遊んでいたが、22時には寝落ちした。次の日は僕以外の同室の4名が22kmのマラニックに参加していた。先導ランナーがいる集団走行で、それこそ本来の意味のマラニックのようだったが、筋肉痛だと言いながら走るのが凄い。僕は途中で彼らに声援を送ったが、ちょっと悔しかったので、来年は参加しようかな?と考えたりした。

筋肉痛は思ったよりもなくて、2日後は普通に歩けたし、4日後にはほぼ通常に戻ったが、一週間ほどは夜の早い時間から眠くなったので身体の芯が疲れていたのだと思う。しかし、今回の経験を通じて80kmの距離に自信が付いた。100kmのウルトラが視野に入って来たが、その前に県内で最も過酷なレース、しわいマラソンに参加することを決めた。距離は88kmで、過去の参加者の記録を見ると獲得標高は2,600mくらいあるようだ。走ったことがある人は「キツさは同じくらいだよ」と言っていたが、それはリップサービスだろう。普通に考えて今回より厳しいはずだ。

首位の選手はこれを僕のハーフ
のベストくらいのペースで走るようだが、僕の目標は完走。時間内完走を目標に、粘り強く走る練習を積み重ねたい。そして僕は、力強く次のステップに進むのだ。

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