僕を嫌いな人たちへ

僕のことを嫌いな人たちがいる。
でも僕は不思議なのだ。
嫌い続けるパワーってどのように生まれるのだろう。
僕はこの人は嫌いだなと思ったら会わないようにする。
積極的に会話することもない。
だって嫌いな人と会話することで、やはりこの人のことは嫌いだなと再確認して、さらに嫌いになるなんて楽しくない。
そんなことを感じる僕の感情が嫌だ。
それが仕事の付き合いだったらさっさと諦める。
その人との会話には不感症になる。
いちいち怒らないし、不機嫌にもならない。

僕はできることならいつも上機嫌でいたいし、無理なく自然と幸せに振る舞う人でありたい。
誰かを憎んだり、嫌ったりする感情そのものを抱えたくないのだ。

それは走ることから学んだ。
走り始めてから怒ることや不機嫌になることが減った。
レースは雨や雪の日でも行われるし、砂漠の日差しや強風は本当に厳しい。
でも、そういう天気に対して腹を立ててどうする?
走ることを決めたのは自分なのに、パーフェクトな天気ではないからといって不満を述べるのか。
それよりも雨が降れば湿度の高さで呼吸が楽になることを喜び、風が吹けば風向きが変って追い風にならないかな?と期待するほうが楽しい。
全てが自分の思い通りにならないからといって、目の前にいる他人が嫌いだからといって、不機嫌になったり怒ったりするのは間違いだと気付いた。
その人はその人の人生を生きていて、僕の人生とは関係がないのだ。

嫌いなものを見続けて、嫌い続ける努力をしている人は、やはり嫉妬しているのではないかと思う。
坂爪圭吾さんが指摘するところの「よろしくやってんじゃねぇよ理論」だ。

為末大さんも同じ指摘をしていて「嫉妬の害」や「嫉妬マネジメント」という一連のツイートをされているけれど、僕は次の一文が秀逸と思う。

世の中の問題を語るときは楽しい。
苦しいのは自分に視点が向いたとき。
人はどこかで“こんな自分に誰がした”と思いたい。
しかし向き合うと気付いてしまう。
自分の人生は誰のせいでもない自分のせいだと。

嫉妬というのは赤ん坊にも猿にもある感情らしいので、完全に消し去ることはできないのかもしれない。
でも、自分の人生、自分の価値は自分で作り出すしかない。
ほしいものがあれば手に入れるための努力をすればいいし、羨ましい能力があれば習得するよう練習すればいい。
そのきっかけを作るメソッドが小野裕史さんの「ノータイムポチリ」だ。

昔と違って、こんな優れた文章を思い立ったらすぐに、無料で読むことができる。
書店に本を発注して、忘れた頃に入荷の連絡があった30年前とは雲泥の差だ。
これは本当に素晴らしいことで、変ろうと思いさえすればいつでも誰でも変るきっかけを掴めるのだ。

僕は彼らに会いたいと思ったので、坂爪さんにも、為末さんにも、小野さんにもお会いした。
願えば叶う、というのは誤りだ。
動かなければ叶うことはない。
大切なのは具体的に動くことだ。

僕を嫌い続けるなんて不毛なことは止めて、どうか自分のために時間を使ってください。
嫌いなタレントが出ている面白くもないテレビ番組を見続ける必要はないのです。
僕のことなんて、きれいさっぱり忘れてください。

あなた自身の人生を生きてください。

この時代の、この場所に生きていることを楽しみましょう。
そして僕たちの次の世代に、大人になることや生きることは苦しいことではなく楽しいことなのだと、人生は素晴らしいのだと行動で示しましょう。
それが何よりも大切なことだと僕は考えています。

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