エリートとして走り続ける人生

14日と15日の二日間で東京出張していた。
飛行機を押さえていたのに交通遮断で急遽新幹線になったり、色んな意味で疲れた出張だったが、今回、お会いさせていただいた人たちの多くが東京大学法学部出身だったことも疲れた理由の一つのように思う。

頭がいい人と話をするときは、こちらの頭もぶんぶん回さなければならない。
相手はこちらのレベルに合わせ、噛み砕いて話をしてくれているが、フェラーリと並走する軽自動車のようなもので、エンジンが小さい分(=頭が悪い分)、アクセル全開で高速回転させなければならないのだ。
そういう分不相応なことを続けたのだから、疲れて当然だろう。

それにしても彼らの人生ってどうなのだろう?と来し方行く末に思いを馳せてしまった。
きっと子どもの頃から誰にも負けないくらい頭が良かっただろう。
しかし、上に行けば行くほど自分と同じくらい頭が良いヤツが出現する。
そんな中で常に勝ち続けてきた人たちだ。

これはスポーツの世界と同じである。
常に競争にさらされ、誰かと比較され、より良いスコアを出したほうが勝ち。
しかも途中からは勉強ができるだけでは駄目で、先を見通す想像力、高度なコミュニケーション能力、問題に対する突破力など、全てにおいて高いスキルが求められる。

それらの課題を次々にクリアし、同じ東大法学部出身の人たちの中でも勝ち上がった人は、感嘆するほど頭が良い。
彼らはそこからさらにスタンフォードやオックスフォードで世界中の頭の良い人たちと競っている。
時々、頭が良くても人間性が云々と言う人がいるけれど、そういう詭弁は真に頭が良い人の前では空疎すぎて「負け犬の遠吠え」にすらならない。

僕は、優れたスポーツ選手を目の当たりにしたように、感動すら覚えた。
元々頭が良いに違いないが、そこに至るまでの高度な努力の量は凄まじいはず。
間違いなく、僕なんかの努力とは、質的にも量的にも比べ物にならないことが理解できたのだ。

スポーツ選手と違うのは引退がずっと先で、彼らの競争はこれからも続くということ。
新しいことにチャレンジし、常に成果を出し、自ら設定した次のステップへ進む。
それは終りのないマラソンレースのような、修羅の道である。
成果が出せなければ脱落するしかない。
40歳になっても、50歳になっても、周囲は容赦してくれない。
それが彼らの人生なのだ。

凄惨だと思う。
確かに稼ぎは一般人よりも良いだろうが、それは当然である。
努力に応じた報酬が得られない社会は不健全だからだ。

僕は1月から新しい仕事に就いたが、そういう人たちに接する機会ができたことに対して感謝しなければならないと思う。
どんなに元の頭が悪くても、努力しないよりはしたほうがマシになる。
それは絶対に間違いない。

努力や勉強に遅すぎることはないはずだ。
土台がないのだから質も量もゆっくりにしかできないけれど、頭も身体も走り続ける重要性を痛感したのだ。

このページの先頭へ